「手の届く」瞬間まで
『一ノ瀬さん』
彼女はふわっとした笑顔で私を呼んだ。
まるで春に吹くようなあたたかな風が流れているような
そんな心地よい場所で二人きりでした。
『一ノ瀬さん』
また名前を呼ばれた。
でも今度はまるで凍りついたような、とても冷たい風が吹き抜けて行った
あたりは突然に暗くなり、寒く、藍色の世界に染まった
ぽた、ぽた、
雨が降ってきたと、
まるで雨が降ってきたと思ったんです。
でも、
『七海君・・・』
何故、泣いているのですか?
何故、涙であふれているのですか?
私は彼女の涙をぬぐおうと手を伸ばした
しかし、その手は彼女によって振り払われてしまいました。
その行為にトキヤは驚き、動きを止めてしまった
ただただ、春歌の涙だけがスローモーションのように溢れ、流れていた
『泣かないで下さい。何故泣いているのですか?』
彼女に手が届かない
金縛りにあったような、そんな表現が近いと思うのですが。
雪のように冷たい空気が流れだしてきた
彼女に手が届かない
トキヤはとてももどかしく、苛立ち始めた
彼女にふれてあげない、その涙をとめてあげたい
何故、こんなに近くにいるのに、そんなこともできないのか
『私じゃだめなんですか?』
悲痛な叫びのような声が出た
自分でも驚くくらいの、響く声だった
その声に七海君はぴたっと泣きやみ、私を見上げた
大きな、涙に濡れた瞳が私を鏡のように映し出していました。
すると彼女は私の方に両手を伸ばし、ゆっくりを頬を包み込んでくれました。
『だめなんかじゃないです。だめなんかじゃ』
そう言った彼女の笑顔はとてもキラキラと輝いていた。
『一ノ瀬さん』
また彼女は私の名前を呼びました。
ああ、もっと
もっと呼んでくれれば、私は、
「一ノ瀬さん?」
くりっとした、淡い琥珀色の瞳が私を映し出していた。
あたりは真っ暗で、教室には私と七海君しかいなかったのです。
「夢・・・」
「ごめんなさい、私遅れてしまったので。お疲れのようですし、今日はこれで・・・」
「いや、大丈夫です」
「でも」
七海君は心配そうに私を見つめてくれました。
彼女は何度も何度も書き直した痕跡がある楽譜やノートを抱え込んでいました。
さらに指にペンをつけてしまったのか、あちこちがカラフルな色をしていて思わず、ふ、と笑ってしまいました。
「一ノ瀬さん?」
不思議そうな声で七海君は私を呼ぶ
時計を見ると、まだ19時
「少しだけ、やりましょう。せっかく七海君ががんばって作ってくれた曲です。
その曲を聴かずに終わるなんて馬鹿なことはしませんよ。」
「はあ、でも・・・」
「疲れてなんかいませんから。さあ、早くやりましょう」
「はい!」
向かい合って座った七海君は、自分の曲を披露できることになって少し嬉しそうに微笑んでいた
ほんとにどうしたらこんなところにペンのあとをつけることができるのでしょうか?
彼女のドジもここまで些細だと面白いですね。
「では、今日はこれで」
結局日付が変わるギリギリまで打ち合わせしたり、アレンジしたりと時間をかけてしまいました。
時間泥棒もいいところですね。
「じゃあ、ここのコーダあとの間奏をもう少しアレンジしてみますね。
イメージだとEマイナーなんですけど・・・うーん、それとも思い切ってAマイナーかなぁ」
「七海君」
「は、すみませんでした。終わりですよね、でももう少し」
「寝不足で倒れられても困るので、今日は終わりです」
私は七海君の楽譜ファイルを奪い取り、教室を出ようとしました。
「わ、ごめんなさい!ファイルだけは!寝ますから、ちゃんと寝ますから!」
あわてる七海君は本当に面白いですね。
トキヤは嬉しそうに隣歩きできるように速度を遅くした。
「一ノ瀬さん?」
「はい」
今度こそ、彼女の触れたかった髪に触れる
さらさらとした彼女の髪は私は好きです。
「私はあなたに呼ばれると、とても嬉しいです」
「はい?」
「いいえ、何でもありませんよ」
彼女に手が届く
それが何よりも幸せなことか、
また春のような、あの暖かい君は私を待ってくれているでしょうか?
隣にいる君に、また手が伸ばせますように
「それではまた明日」
「はい!おやすみなさい。」
また明日、私は君に手を必死に伸ばす
私の名前を呼んでくれるその瞬間まで
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